10〜11世紀地中海世界の国際関係、その中で形成された「ヨーロッパ」政治社会の生成事情、また「中世キリスト教世界」の社会秩序のあり方について研究した。当該期は、西欧の王(フランク王)が「皇帝」名称を帯び、ビザンツ皇帝(「キリスト教ローマ帝国」の皇帝)に代わって、あるいはその共同統治者として「世界」支配を本格的に志向し始めた時期である。それは、ビザンツ皇帝を中心とした「中世キリスト教世界」(つまり「キリスト教ローマ帝国」)の秩序が変容し、「狭義のヨーロッパ社会」が自律的な自己形成を始めたことを意味してもいた。本研究では、マケドニア朝ビザンツ帝国と、オットーネン・ザーリアー期の西方世界との相互交渉を追跡し、双方における議論の異同を、当時の文献資料に即して検証した。この東西キリスト教国家間の交渉分析から、この時期、地中海を席巻していたイスラム勢力との攻防問題、また、地域内部で9世紀以来覇権争いをしていたイタリアにおける宗主権の帰趨等が、「皇帝」の職務との関係から主要な外交話題になっていたことが浮き彫りにされた。具体的な分析対象として、クレモナ司教リウトプランドの『コンスタンティノープル使節記』Relatio de Legatio Constantinopolitanaおよび「報復の書』Antapodosis、また、10世紀に発布されたビザンツ皇帝、フランク王、イタリア地域諸侯の発布による公文書などを取り上げた。これらテキストに見られる用語また理念的表徴の分析を通じて、民族、宗教といった近代的諸観念によらない当時の社会統合のあり方の一端が明らかにされたものと考える。とりわけリウトプランド『コンスタンティノープル使節記』については、解説、訳注付きの翻訳を完成させた(成果報告書)。この重要史料は、「ビザンツ」「西欧」の政治世界を、広く地中海世界全体との関係の中に解放し、新たな視角からの分析を可能にするものである。
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