本研究の課題は、11世紀70年代から12世紀初頭にかけてのいわゆる「叙任権闘争」の時代の史料に現れる「ドイツ王国」、「ドイツ国王」等々の術語の収集・検討を通じて、当該期における「ドイツ」なる概念の政治的・歴史的性格を解明することにある。本年度の研究では、とりわけライン地方の不詳の修道士の詩作『アンノの歌』に見える「ドイツ人」の解明に力点が置かれた。検討の詳細は、「"叙任権闘争"とregnum Teutonicum-"ドイツ"概念の政治的・歴史的地平-」(下)と題する論稿にまとめ(原稿用紙換算、約240枚)、既に公刊されているおり、ここでは概略に留める。 昨年度の研究で取り上げたヘルスフェルトの修道士ランペルトは、「ドイツ」概念に関して鮮烈な政治意識を表明する一方、その『編年誌』には歴史的側面がほとんど欠落していた。これに対し、不詳の詩人は、1078/81年頃、中高ドイツ語で『アンノの歌』を著した際、ケルン大司教(在位1056-75年)にしてジークブルク修道院の創建者たるアンノ2世を主人公としつつも、その前史(19〜28節)において、いわば「ドイツ人の起源説話(Origio gentis Teutonicorum)」を、ユリウス・カエサルによるローマ建国神話と結びつけるいという形で描き出した。すなわち、彼が展開する極めて興味深い構想によれば、フランク人、バイエルン人、ザクセン人、シュヴァーベン人という本来自立的な4民族が「ドイツ人」へと統合される契機は、カエサルとの同盟、そして彼による「ローマ帝国」の樹立と密接に関連しているのであり、このフィクショナルな物語からは、普遍的・キリスト教的に理解されたローマ皇帝権との緊密な関係において、初めて自らの存在価値を見出しえた特殊ドイツ的なアイデンティティの内実を読み取ることが可能なのである。もっとも詩人の生きた同時代の皇帝権の現実の権力基盤は、あくまでもアルプス以北の領域(="ドイツ王国")に置かれていたのであり、「ドイツ人」の統合契機であるローマ帝国の担い手であるという理念と、現実の政治状況との間には大きな溝が横たわっている。そして、中世後期以降、イタリア・ローマに対する王権の影響力が後退するなかで、両者間の乖離はますます深められていくことになるのである。
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