本研究の主たる課題は、11世紀70年代から12世紀初頭にかけてのいわゆる「叙任権闘争」の時代の史料に現れる「ドイツ王国(regnum Teutonicum)」、「ドイツ人の国王(rex Teutonicorum)」等々の政治的術語の収集・検討を通じて、当該期における「ドイツ」なる概念の政治的・歴史的性格を解明することにあった。その成果を要約すると、おおよそ次のようになる。 まず、上記の政治的術語が普及・定着するにいたる契機は、教皇グレゴリウス7世の「戦いの言葉」としての語法であった。もっとも、これらの術語の普及は、19世紀の国民史的歴史学が前堤とした、広範なる「民族意識」によって底礎された国家観を反映した所産ではなく、むしろオットーネン・ザーリアー諸王の普遍的支配権主張を否認すべく教皇が採用した自覚的語法が、多くの場合形式的に受容された結果であった。「ドイツ」なる概念は、「ローマ」、「フランク」といった伝統的概念と異なり、正当性を欠いていたのであり、「ドイツ王国」概念を多用したヘルスフェルトの修道士ランペルトにおいても、その根底にあるのは、貴族的身分意識に立脚した保守的な支配観念であり、「ドイツ」概念は事実上旧来の「フランク」概念と同義であった。ただし、歴史的側面においては、『アンノの歌』が、いわば「ドイツ人の起源説話(Origo gentis Teutonicorum)」を、カエサルによるローマ建国神話と結びつけるという形で描き出し、普遍的・キリスト教的皇帝権との緊密な関係において、初めて自らの存在価値を見出しえた特殊ドイツ的なアイデンティティの内実を示していた。もっとも詩人の生きた同時代の皇帝権の現実の権力基盤は、あくまでもアルプス以北の領域(="ドイツ王国")に置かれていたのであり、「ドイツ人」の統合契機であるローマ帝国の担い手であるという理念と、現実の政治状況との間には大きな溝が横たわっている。そして、中世後期以降、イタリア・ローマに対する王権の影響力が後退するなかで、両者間の乖離はますます深められていくことになるのである。
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