今年度はこれまでの研究の集大成を目指した。1258年4月にレスタ伯等7人の特権諸侯が、国王ヘンリ3世に国政改革を迫るという事件を契機に始まったバロンの反乱は、紆余曲折の後、1265年8月にレスタ伯が戦死することで終結し、死の直前に彼の主導権の下に開催されたパーラメントへ、旧来からの封建諸侯に加えて、州代表と都市代表とをイングランド史上初めて召集したことが、歴史的成果であると見なされてきた。この見解は19世紀末のイギリス議会政治を称えるというバイアスをもった歴史観が作り出したもので、その後の研究により批判されている。では反乱の歴史的意義は何なのか。 それは端的に言えばイングランド封建国家の公権力にあたるものが、1258年の改革派諸侯の主導権で造られたオクスフォード条款の規定によりうち立てられ、その後2年間ほどは実際に権力を行使していたという事実である。1260年以後には国王政府も、またヘンリのあとを継いだエドワード1世の政府も、反乱中にうち立てられた公権力の役割を自らのうちに取り込んで、任務を果たすことができた。 以上の見解は通説とは大いに異なっている。通説は国王を頂点に身分の上下を問わずイングランド住民が王国共同体を結成して、国民国家を構想したと見なしているが、実際には諸侯の団体こそが王国共同体の実態であり、州の騎士も都市民も公権力には殆ど関わり得てはいない。この事実の発見は国王文書と年代記に主として依存する従来の研究ではなし得ない。研究代表者(朝治)はイングランドに赴いて、未刊行の巡回裁判記録や、特権諸侯の荘園裁判記録、特許状の立会人記録などを転写し解読することによって、従来は見えていなかった歴史像を発見した。 特に今年度は1258年に諸侯によってうち立てられた15人委員会(新しい国王評議会)が実際に機能していたことを、史料によって確認し得た。しかもその成果を英文で表し、イギリス人研究者に査読してもらう機会を得た。
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