1 土器焼成残滓資料を収集し検討することで、土器生産の拠点を特定し、生産された土器の形状や胎土の特徴を抽出し、その分布状況から、次のような土器生産における分業と交流の具体的な様態を明らかにできた。まず、弥生時代中期には、日常用土器は、松山市道後城北遺跡群の検討から、その中核である文京遺跡の集落で生産された土器が遺跡群内の小規模集落に供給される。同時に、遺跡群をこえた土器造りの情報が交換されている。これに対して、成人用大形甕棺や丹塗磨研土器などの用途が限られた土器の場合は、福岡県大板井遺跡や貝元遺跡で土器の生産拠点を確定できたが、2km四方程度の遺跡群をこえた交流システムを通じて供給されている。弥生時代終末前後には、四国東北部の下川津B類土器や東阿波型土器など、限られた器種と胎土をもつ土器が一定の地域で集中的に生産され地域をこえた広域供給システムが指摘されているが、そうした土器生産の拠点の一つとして徳島県石井遺跡群や矢野遺跡群を特定できた。 2 福岡県津古・三沢遺跡群の弥生時代前期の集落遺跡群で、石器製作残滓や未製品の出土状況や分布を検討し、石庖丁・剥片石器類、伐採用石斧、木工加工用石斧の3者ごとに、その生産と供給の体制が異なることを明らかにできた。また、北九州市長野小西田遺跡群では、弥生時代後期に、地域単位での木製品の供給体制があったことを明らかにできた。 3 当初計画していた大韓民国忠清南道寛倉里遺跡の資料調査は連絡調整がつかなかったため、次年度以降に計画していた東日本地域における縄文時代資料の調査を進めた。北海道千歳市キウス遺跡、東京都多摩ニュータウン遺跡群、岩手県北上市九年橋遺跡で、土器焼成残滓および、その可能性が高い資料を確認でき、弥生土器とは異なって集団の季節的移動サイクルの中で集中的に土器を生産するシステムであったことを明らかにできた。
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