土器焼成残滓資料の個別的な検討から、以下のような土器の分業と交流の具体像を復元できた。 (1) 秋田市地蔵田B遺跡、青森県八戸市是川遺跡では、縄文時代晩期には1〜3棟の竪穴式住居跡から構成される住居群を単位として、基本的には自己消費を目指した土器生産が行われる。ところが、弥生時代前期に遠賀川系土器が登場すると、大型壺だけを生産し径10〜20km圏内に供給するシステムが確立される。 (2) 縄文時代晩期〜弥生時代前期に時間的に平行する無文土器時代中期には、大韓民国忠清南道寛倉里遺跡の集落遺跡で検討から、径2〜4kmほどの圏内で中核的な大規模集落で土器が生産されることを確認できた。また、大規模集落を構成するいくつかの住居群で個別的に土器づくりを行うシステムから、大規模集落内の1ヶ所で土器焼成を集中的に行う地点が設けられ集約的な土器生産体制への転換が読み取れる。 (3) 徳島県名西郡石井遺跡群と徳島市矢野遺跡群では、弥生後期には小規模な土器生産が継続されるが、弥生後期終末には複数の地点を拠点とする土器の専業的で大量生産を目指した体制が整えられる。それは地域をこえた集団の移動や移住を含む広域供給システムの確立と連動する。 以上の(1)・(2)と昨年度に行った北部九州での事例研究を比較検討することで、日本列島と朝鮮半島で初期農耕社会が成立する縄文時代晩期〜弥生時代前期あるいは無文土器時代中期において、土器の生産と供給の側面でも変革が生じていることを指摘できる。同時に、農耕文化の受容プロセスにおける器物の生産と供給のシステムの組み替えは、個々に地域社会の特性を形成する主要因であることが明らかにできた。また、(3)の事例研究では、弥生時代終末〜古墳時代初頭に広域交流がとくに活発化する背景として、小平野を単位とする地域で器物の専業生産と広域での交換システムが確立されることを指摘できる。
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