これまで中世史研究の主人公であった、武士と農民ではなく、彼ら以上に日本列島の各地で活躍していた商人や職人、そして彼らの拠点となった都市をキーワードにして中世史を見直す試みをおこなっている。 今年度は、普賢寺谷遺跡群と石清水八幡宮を対象とした、本研究のまとめとして、南山城に視野を広げたそれらの位置づけの検討をおこなった。 普賢寺谷遺跡群では、昨年度より開始された本学歴史資料館の学術調査の成果を取り込む形で、新宗谷館跡の遺跡情報の取得をおこなった。その結果、推定される館跡地点の調査において、絵図史料に描かれている時期と一致する、15世紀代の中国製陶磁器が出土し、当該地点が山城国一揆において一定の役割を果たした場所であったことを確認した。これは普賢寺谷の歴史的景観復原を進める基礎資料と評価できる。 また、普賢寺谷中世館群の南山城における位置づけを検討するために、山城国一揆関係の研究史をふまえた、普賢寺谷以外の地域の歴史情報の収集をおこなった。その結果、一般的な中世後期の館と集落は中心とされる館を軸に散在的に存在しており、これに対して普賢寺谷の場合は、同じランクの館が谷を見下ろす形で密集しており、こういった景観が、南山城ばかりでなく同時期の日本列島の中でも希有な状況を示していることが看取された。これは本研究の新知見として正報告で詳述するつもりである。 石清水八幡宮関係としては、中世的景観の源流となった古代の風景にも考察をひろげた。その結果、石清水八幡宮の所在する男山丘陵の東側が古代寺院の密集地であり、それらがいずれも古代の山陰道または山陽道に沿っておかれていること、および、その実態がローカルな氏族の本拠とその施設に付属する関係であるという見通しを得た。これは石清水八幡宮の成立前提として、従来より注目されてきた水上交通の重要性以外に、陸上交通の要衝であることと、それを前提として成立していた、おそらく平安時代まで続く古代氏族の存在に対する見直しを促すものであり、やはり正報告で詳述したいと考えている。
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