弥生時代、日本列島に甲冑が出現して以後、古墳時代には、その変遷過程に、大きく二つの画期がある。最初の画期である4世紀後葉には、甲冑製作技術が確立し、次の画期である5世紀第二四半世紀には、甲冑製作に鋲留技法・鍍金技法が採用される。この第二の画期に出現する挂甲は、本来的に騎兵の装備である。この時期以降、馬具も普遍化していき、馬文化が定着していった状況が窺える。騎兵のなかで、人のみならず、馬も甲冑を着用するのが重装騎兵であるが、日本列島においては、馬甲・馬冑の出土例が稀であることから、それほど普及しなかったようである。また、その出現時期も馬具や挂甲より遅れる。 これに対し、韓半島東南部の加耶地域の甲冑は、大きく、在地系、北方系、倭系に分けることができるが、騎兵、あるいは、重装騎兵の装備は北方系に属す。馬具は、4世紀代の古墳から出土しているが、馬甲・馬冑は5世紀代にならないと出土しない。このことは、加耶地域においても、騎馬文化と重装騎兵は、時期を異にして伝来したことを示している。中国における重装騎兵は、遼寧省で4世紀代の出土が知られており、中国東北地方の重装騎兵が、高句麗を経由して、5世紀になると韓半島南端に、5世紀末には日本列島に、時期差を持って出現することが確認された。 また、資料収集の過程で、中国揚子江中流域の漆皮甲が日本列島の弥生時代木甲・古墳時代鉄製甲冑の源流となりうる可能性があると考えられるにいたった。漆皮製の馬甲・馬冑も出土しており、甲冑、さらには、騎兵という点に関しては、日本列島との関係が、従来あまり問題にされていなかった地域であるだけに、注目される。
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