騎兵装備、特に重装騎兵の源流と考えられる中国東北地方から朝鮮半島北部にかけては、馬甲・馬冑の出土例が極めて稀である。中国では、わずかに、遼西地域で確認されているにすぎず、古墳の石室に描かれていることから、普遍化していたと考えられる高句麗にいたっては、皆無である。しかし、資料が豊富な加耶地域の出土例と比較することにより、古墳石室に描かれた重装騎兵も、十分に資料として活用しうるのである。壁画資料は、基本的に、行軍の場面と戦闘の場面であり、ここで注目されるのは、後者において、堅固な城壁が描かれている点である。重装騎兵は、このような城壁を廻らせた防禦施設を攻めるためにも必要とされたと考えられるのである。日本列島における防禦施設の立地や構造等がこれと異なる点を考慮すると、古墳時代において、戦闘における重装騎兵の必要性、さらには優位性といった点は、それほど顕著なものではなかった可能性が考えられるであろう。それは、戦闘方法に違いがあったことも示しているのである。こうした点も、日本列島において、重装騎兵が普及しなかった要因の一つとして、考慮していかなければならない。 一方、4・5世紀代に新羅から加耶東部・南部地域にかけて出土する在地系甲冑に対し、倭系甲冑は、5世紀代に加耶南部・西部地域を中心に出土し、一部は百済地域に及んでいる。両者の間には、盛行の時期に微妙な差があるとともに、分布を異にする傾向が認められる。また、日本列島では、北方系甲冑である挂甲は出土するが、在地系甲冑が認められない。こうした状況は、当時の新羅・百済・加耶相互の関係や日本列島との交流の一端を反映しているのであろう。
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