弥生時代から古墳時代にかけての墳墓には、鏡などの宝器、甲冑などの武具、刀剣槍などの武器、鎌、斧などの農工具、玉類といったさまざまな副葬品が納められる。その種類や量に関するデータを集めた結果、弥生時代と古墳時代を分けるもっとも大きな差が、鉄製武器や農工漁具の多種大量副葬であることがわかった。これは、鏡や文献史学から推測されていた中国からの影響だけでは説くことのできない変革であり、それを解明すべく近年資料の蓄積の著しい朝鮮半島の同様なデータをできるだけ地域ごとに細かく収集した。それにより(1)日本と同様に弥生時代的な少量の武器や農工具をもつ段階から、鏡を欠くことが多いが、大量の鉄製品を副葬するようになることが全地域で認められること(2)その時期は半島南部で木槨墓が作られるようになるのと軌を一にしており、2世紀代にまでさかのぼること、などがわかった。その背景にはそれまで強大な影響を極東地域に及ぼしていた後漢や楽浪の勢力が衰えたことがあったと考えられる。これにより半島では鉄生産に関する技術や物資の拡散がおこり、結果的に各地で鉄器を大量に副葬するリーダー達を誕生させたのであろう。日本もそうした再編に巻き込まれ、それまで交渉の中心であった北部九州の地位が低下し、それに代わるように丹後地方を中核とする新たな日韓交渉が活発化した。その証拠は丹後の弥生時代後期における墳墓副葬品の変化にも読み取れ、それが畿内に大和政権を誕生させる一因になったことが推察された。この間の交渉の実際を示すのが、定角式鉄鏃や同一の規格で作られた環頭大刀である。朝鮮半島ではその後、4世紀後半から5世紀にかけて副葬品における地域色が顕在化する。加えて次の大きな画期は百済の勢力が南方へ大きな影響を与える5世紀後半であるという予察が得られた。金銅装大刀がそれを証明するであろう。
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