日本の古墳時代は、東アジア各国とさまざまな体外交渉や技術交流を遂げながら倭王権が国家として成熟していく時期にあたる。その中でも朝鮮半島に興った新羅、加耶、百済との関係は、近年増加のめざましい墳墓資料から具体的に比較研究できるようになってきた。しかし、それには各地域の併行関係を確定するという重要な懸案事項がある。そのため、本研究では墳墓出土の良好な一括資料をもとに朝鮮半島の各国における土器の編年を確立し、相互の併行関係を築くことを第一の目的とした。あわせて、今日の日本の古墳編年も共通の土俵の上に作成することにより、はじめて日韓交流を個別具体的に論じる基盤を容易することができた。これにより、研究者によっては同じ古墳を取り上げても数十年の開きがある現状に対して、根拠をもって確固たる年代観を体系的に提示することができた。 この前提作業を踏まえ、本研究では、日本の古墳時代の開始が中国との関係のみならず、朝鮮半島の動向と密接に連動して比較的急激に起きたことを指摘した。その中で、日本海側の地域の果たした役割が大きかったことがわかった。次に、5世紀前半頃までは加耶と北部九州や筑紫の勢力が日韓交流の中心的担い手であったが、その頃から肥後地域と百済とのラインが倭王権によって重要視されるようになることが、石室の比較などからわかった。これは朝鮮半島の情勢変化を反映したものでもある。 そして、新羅、加耶、百済各地域の墳墓副葬品の集成を行った結果、組成や階層性、そして威信財のあり方などを対照的に比較することができた。また、5世紀前半から中ごろにかけて馬具を中心とした金属製品の画期が日韓で同時に大規模に起きていること、6世紀前半になると、おそらく中国の力が働いて威信財の秩序や地域色に大きな変化が生じることなどが判明した。
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