日清戦争後から大正期にかけての日本におけるドイツ思想・文化論が、当時の知識人の意識や国情の実態を反映していることを確認し、国民国家確立期の日本におけるドイツ哲学・芸術の受容の意義について論じるというのが、本研究の目的であった。次のようにその結論の概要を挙げておきたい。 1.当時の青年知識人たちにとって、ショーペンハウアー、ニーチェ、ウァーグナーらが代表するドイツ思想・文化は、俗化の方向をたどる文明の改革と主体性のない社会の道徳への反抗を実現するための支柱となった。 2.ドイツ思想・文化受容の成果が雑誌「太陽」に掲載されたことで、数多くの読者に具体的な情報が与えられ、相対的・客観的な日本文化論の展開によって、日本(=自己)自身への認識を深めさせるというパラダイムが創り上げられ、時代精神そのものが形成されていった。 3.<生の哲学>(Lebensphilosophie)の受容とその評論の隆盛は、明治というひとつの時代を閲した時期の[日本=自己]の存在の基盤を問う風潮と精神性を象徴的に表わすものであった。 4.オイケンの<新理想主義>が移入されたことによって、現代文明・自然主義の超克、精神生活の建設が提唱されることとなった。 5.<文明>と<文化>が、当該の社会状況や思潮の動向に応じ、用語として区別されるようになるのは1910年代であり、ドイツ語<Kultur>の翻訳である<文化>概念の登場が<文化主義>を導き出した。その要因としては、明治期における<日本文明>の進展についての自覚、<国民文化>確立の重要性の認識、ドイツ思想の受容による<教養>の練磨などが挙げられる。
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