本年度は『大日本史編纂記録』(原題『往復書案』)〈彰考館旧蔵/京都大学文学部古文書室現蔵〉のうち、冒頭10冊分の翻刻を終了した。書案は、江戸又は水戸在住の彰考館員と、京都周辺又は各地で資料を収集する館員の間で交わされた書簡の文案である。時期としては、延宝8年(1680)から元禄2年(1689)に相当する。この時期には、『大日本史』編纂の基礎資料、特に南朝関係文書が佐々宗淳を中心に近畿地方で収集されたことが従来知られる。本資料の翻刻で、その具体的様相が鮮明になった。徳川光圀の意向を伝える言わば在館者と、実際に資料を探訪する言わば実働者の役割分担により、組織的な作業が機能している様子が窺われた。収集の先頭に立った宗淳は、努めて清廉潔白を保っており、各地での饗応や進物を丁重に断っているが、そうした厚意の詳細を具体的に記録して報告している。また資料の博捜に当たっては、菊亭家、勧修寺家ら、京都の水戸藩邸の隣人である公家が仲介役として多大な協力をしたことが判明した。出入りの本屋も、和書・漢籍、写本・版本を問わず収集に協力している。京都で臨時の筆耕を雇っているが、守秘義務を徹底させるなど、細心の注意が払われている。 『大日本史』編纂以外で注目される記事も多い。特に元禄2年から『洪武正韻』を始め、漢籍の韻書を収集していることが新たに知られた。以前私は、唐話に通じた酒泉竹軒の彰考館出仕(元禄4年)が、宝永2年(1705)刊の『洪武聚分韻』編纂の一要因になったと考察したが、それ以前に光圀が唐音に強い興味を示していたことが分かった。韻書編纂の意図を、この時期既に抱いていたことが窺われる記事が散見する。光圀と館員との漢詩唱和の記事も見え、作品は『(文苑)雑纂』に収録させている。また、京都の慈光寺家探訪の際、『承久記』(慈光寺本)を発見し、流布本との相違に価値を認めて書写させたことも、元禄2年中の記事に見える。
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