本年度は京都大学文学部古文書室蔵『大日本史編纂記録(往復書案)』の中から、水戸藩彰考館の編纂刊行事業として従来言及の少ない『舜水先生文集』(二十八巻目録一巻付録一巻 元禄十年<一六九七>安東省菴序・正徳二年<一七一二>徳川綱条前序・安積澹泊後序/正徳五年茨木方道(=多左衛門)刊)の企画から刊行に至る過程を追究した。文集刊行は、舜水没後三十三年目、企画立案から二十年近くを要したことになる。本年度中に発表した拙稿には、元禄末年(〜一七〇三)までの動向を纏めた。 中国・明の遺臣朱舜水(一六〇〇〜一六八二)は亡命して日本に流寓するが、祖国の復興を断念し、寛文五年(一六六五)水戸藩主徳川光圀の招聘に応じ、江戸に定住した。鎖国政策下に異例の招聘ながら、光圀の舜水に対する信頼は厚く、舜水もそれに応え、その実践的な学問は水戸藩士の思想・教育に多大な影響を及ぼしたことはよく知られる。舜水没後、その詩文集(ただし舜水来日後の詩作はほぼないことが確認された)編纂の企画が光圀の発案で持ちあがったのは、元禄九年のことであった。翌十年には、長崎在住時代の舜水を経済的に援助し、柳河藩儒として著名な安東省菴に序文を依頼している。その後元禄十三年、十四年と光圀・省菴が相次いで没し、編纂事業は舜水門弟の彰考館総裁安積澹泊を中心とした酒泉竹軒ら彰考館員に継承された。柳河藩側においては、省菴子息〓菴の協力を得ていたが、元禄十五年に三十六歳の若さで死去した。その子息である後の志学斎は十四歳と若年ゆえ、〓菴岳父の山崎玄碩が柳河安東家に伝わる舜水の遺稿収集に協力していたことが分かった。また柳河藩では省菴の詩文集編纂を進めており、水戸・柳河両藩協力のもとに、二人の遺稿集を平行して編纂する様子が『大日本史編纂記録』中に克明に記されている。
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