昨年度末から、朱舜水の遺稿集『舜水先生文集』(正徳五年<一七一五>茨城多左衛門刊)の編纂事情について企画から実際の刊行に至る紆余曲折を、関連書案の抄出・翻刻という形で連載し始めた【なるべく迅速に研究成果を公表し、世間の批判を仰ぐべく、異なる学術雑誌に交互に連載する方式を敢えてしている】。元禄末年(〜一七〇三)までの状況は昨年度紹介済みなので、本年度は引き続き宝永年間以後正徳二年までの動向をまとめた。この時期までに清書が出来し、編纂自体はほぼ終了したと見てよい。その間、『舜水先生文集』の補遺ともいうべき『舜水朱氏談綺』(宝永四年<一七〇七>)が先に刊行された。この周辺事情については別に論文を発表した。 両書とも編纂の中心となっているのは当時の彰考館総裁の一人安積澹泊【書案中に覚兵衛として登場】である。澹泊は柳河藩儒安東家が、舜水門下生であった安東省菴の文集を企画していることから、二つの文集を平行させて、御互いの本文考訂に資するべく努めている。安東家では省菴子息〓菴が早世、その岳父山崎玄碩が実務を引き継いだが、高齢ゆえ〓菴子息後の志学斎【書案中に喜七郎として登場】に受け継がれた。澹泊は柳河藩江戸藩邸を通して、志学斎と連絡を取ろうとしている。しかし書案から察すると、志学際は京都に遊学し古義堂の伊藤東涯に入門して勉学中のため、澹泊と連絡が密に取れなかったものと思われる。また若年の志学斎には祖父の著述を編纂・刊行は困難であったと見られる。そうした困難な状況下でも、澹泊は精力的な仕事ぶりを続け、筆耕を雇って清書を完成させたことは驚嘆に値する。現行の『舜水先生文集』前序は水戸藩主徳川綱条によるものだが、実際は酒泉竹軒による代作であることも明かされている。
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