四〇〇年前、出雲の阿国は初めて京でかぶき踊りを踊った。以来、東西に広がったが、幕府の管理政策の下、男ばかりの芸能に転換、三都の大芝居を中心に発達を遂げた。大芝居以外は百日の許可を受けて各所で宮地芝居が行われた。地方においても、名古屋・金沢などの大きな城下町、伊勢・宮島などの門前町でも百日芝居が行われた。それでも、農漁村部では歌舞伎を容易に見ることはできなかった。まれに巡ってくる旅廻りの一座の僅か一日か二日の興行を見、その魅力に取り憑かれることもあった。しかし、農漁村部では歌舞伎は原則として禁止であったから、村人は氏神の祭礼や村の遊び日を利用して歌舞伎を楽しんだ。これが村芝居である。旅芝居の一座を買ってくることもあれば、自分たちで真似て演じることもあった。前者を買芝居・請芝居、後者を地芝居・地狂言という。元禄の頃にはすでに始まったと思われるが、江戸中期以降は全国に広がり、村に専用舞台が造られ、毎年決まった期日に上演するようになっており、独自の発達を遂げていた。しかし、村芝居は大芝居とは異なり、年に一度、僅かの村人が楽しむという一回性・小規模なものであったため、資料がほとんどない。各地で独自の作品・独自の演出も発達したが、芸能の伝承は変化しやすいので古態のままでは伝わりにくい。過疎化、近代化による消滅も激しい。やはり、文献資料から読み取るしかないので、本研究はこうした文献の中、台本に注目して、村芝居の実態を明らかにしようとした。地芝居が特に盛んであった東濃・南信・三河地区を対象とし、まずは地芝居の台本存在を確認・調査し、データベース化を試みた。台本本文及び台本に書き留められたメモから、この地域の地芝居は地廻りの旅役者を振付師として指導を受けたものであること、従って、特に上方の中小芝居の影響を強く受けていることなどが明らかとなった。
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