上甲振洋の紀行日記について、これまで何度か拙論を発表してきたが、執筆の際テキストが2、3種あって、それぞれ幾分かずつ異なり、振洋自筆なのか、弟子の鈴村譲の筆写なのか、その弟鈴村良一の筆写なのか、はたまた兵頭賢一はどのテキストに依拠して活字化したのか等々、判然としないことがあった。原本調査の必要性を痛感していたので、本研究補助金を頂いたのを契機に、昨年12月中旬と本年3月上旬の2回、宇和島市立図書館に出向いて上甲振洋関係の資料、即ち、「鳩ヶ谷鈴村家文書」「博多鈴村家文書」を閲覧・筆写・複写した。これは、この研究を開始した昭和62年以来、最大規模の調査であった。その結果、既発表の拙稿に使用したテキスト関係部分の訂正が必要になった。本年度扱った『帰献録(富士山遊記)』のテキストが収められる『存々斎集』は、博多鈴村家伝本ではなく、実は埼玉県鳩ヶ谷市の鈴村家伝本であったということが判明した。従って、それは三好昌文氏の手になる「鳩ヶ谷鈴村家文書目録(鈴村芝郎氏寄贈文書)」(1987年3月)に見えるものであり、「博多鈴村家文書目録」には見えないのは当然であった。また、三好昌文氏に直接お会いして「博多・鳩ヶ谷鈴村両家文書」についてお聴きし、その辺の経緯を確認することができたのも有意義であった。これらの調査によって、テキスト上の疑問がだいぶん氷解した。この3月末に発行予定の「内海文化研究紀要」に登載した『帰献録(富士山遊記)』についての拙稿(400字詰め185枚)には、底本のテキスト及びその活字化、異本と校合した校勘、現地踏破を活かした訳注の増訂等の成果を盛り込むことができた。更に、『帰献録(富士山遊記)』や「上甲振洋先生年譜」中の人名・書名・地名・作品名等の索引作りも進めている。今夏には宇和島市立図書館を再訪して、「博多鈴村家文書」を中心に閲覧調査したいと思う。
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