本年度は主として湖南における文献資料と包公廟の実地調査を行い、包拯の冥界の判官としての形象について考察した。包公廟については明清民国時代の地方志に記載されていたが、所在地を捜すには詳細な記載と地図を必要とした。そこで役だったのが中国各地で80年代に編纂された湖南省各県の地名録であった。だが文献に記載されていない包公廟も少なくなく、それらは地元の人の協力をえて知ることができた。また先に国内で長沙発行の包公経典を収集していたが、今回の調査で瀏陽県の赤馬殿が版元であることをつきとめた。隣の醴陵県では包公は観音・龍神・関羽と並んで代表的な神明であった。醴陵県では別の包公経典が発行されていた。人々は包公に将来の幸運と病気の回復を祈願していた。こうした包公神への信頼は文学作品による包公像の形成が大きく関係している。たいていの包公廟では包公像は黒面で額に三日月の文様を描き、四名の護衛を従え、銅製の処刑具を配備していた。これは清代の語り物『龍図公案』の影響である。さらに各地の包公廟には包公が裁判を行って当地の民衆を救済したという伝説を記載している。もちろん実際に包公が視察したわけではないが、これは小説『龍図公案』で包公の全国行脚を述べたと同じ論理で、包公来訪伝説が創作されたのであった。湖南省は内陸部で農村は貧困であるが、それだけに神明に対する期待は大きいと考える。民間信仰は宗教の範疇に入っておらず、迷信として弾圧を受けかねない状況にあるが、民衆は何とか政府の許可をえて信仰生活を守ろうとしていた。湖南の包公信仰は江西まで伝播していた。湖南に隣接する江西萍郷市、万載県、宜春市などかつての袁州地方では、儺神や許遜・華陀とともに包公を祀っていた。調査する以前には文化大革命で民間信仰は根絶されたという報告を見ていたが、経済発展を願う今日ではむしろ盛行する傾向にあることを知った。
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