中世以来ヨーロッパ的現象だつた魔女狩りを17世紀以降アメリカ的現象にしたのは、厳しい自然風土とピューリタンが奉じた終末論的世界観だった。単なる少女たちの虚言を多数の犠牲者が出る大規模な集団ヒステリーにしたのも、折からの社会不安の中、悪魔という「目に見えぬ脅威」が「約束の地」セイラムを最終攻撃目標に定めたと説いた「愛国的」で狭量な聖職者である。既に「理性の時代」も間近に迫ってはいたが、指導者の狂気にも似た頑迷と独善にセイラムの村民は半年近くも「理性」を失い、踊らされることとなった。このセイラムの魔女狩りという恐るべき集団ヒステリーは、姿を変えてその後のアメリカ史に繰り返し登場し、21世紀の現在にも及んでいるが、その最大の再現は1950年代の赤狩りだった。セイラムの「目に見えぬ脅威」悪魔は、ワシントンにおいて共産主義となった。そこで我々はセイラム魔女裁判と、その忠実な再現とも言える赤狩りに焦点を当て、それぞれが生み出した文献、すなわち「魔女狩りナラテイブ」を検討した。前者では植民地時代の文書、19世紀小説テキスト、現代小説や演劇においてセイラムの魔女狩りがいかに表象されているかを検討した。後者に関しては、赤狩りに直面した当時の知識人たちの対応を様々な角度から検証した。いずれにあっても、国家社会の危機にしばしば勢いを得る自己中心的で独善的な「アメリカ」なる愛国概念と、人道主義的でリベラルな行動指針との間で分裂し、苦悩する人間模様が複雑に表現されている。植民地時代から20世紀に及ぶアメリカの「魔女狩りナラティブ」の検討を通し、理想主義の光と陰に彩られた同国の知的風土の特質を追求することで、本報告書はアメリカ研究へのささやかな一助となるものと確信する。
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