インド中世後期の、ヒンディー語とりわけブラジ・バーシャー方言によって文学理論を著した詩論家ケーシャヴ・ダースの諸作品のうち、ラサ論を扱う『ラスィク・プリヤー』の読解および内容分析を中心に研究を進めた。中世の韻文作品で、しかも技巧も駆使された難解な詩節は読解に非常な時間を要し、全体を訳出することはできなかったが、新たな知見が多々得られた。詳しくは成果報告書にゆずり、要点のみ挙げることにする。 まず、大きな潮流として捉える場合でも、文学という枠組みのなかでのみ考えていたが、実際に作品を読んでみると、この『ラスィク・プリヤー』においては、文学理論すなわちサンスクリットで言うところのカーヴィヤ・シャーストラの流れのなかに、性愛文献すなわちカーマ・シャーストラにおける伝承が流れ込んでいることが判明した。こうした融合はケーシャヴが初めてなのか否かは、先行する他の同ジャンルの作品に当たってみるまで確かなことは言えないが、宮廷を中心とした文献伝承ひいては文化伝承の一つの姿としては注目すべきことである。性愛文献と文学作品との繋がりは、古典サンスクリットの時代から文献的にしばしば窺われることである(この点、別の機会に整理したいと思っている)が、性愛文献の記述が文学理論書に入り込む例としては初めてであるからだ。 作品全般にわたり、諸項目の規定部分は非常に簡単に記述され作例が多く提示されていて、古典の文学理論書の体裁とはかなり異なることから、単純に比較することができないが、「女主人公の分類」などにおいては、14世紀の理論書『サーヒティヤ・ダルパナ』の規定方法と軌を一にしていると見なして良いだろう。 中世後期の文学理論書のなかに、古典の文学理論の枠組みを踏襲しつつ、新たな視点や記述の工夫が加えられていることを解き明かすことが出来た。
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