ソ連邦崩壊後、中ソ関係についてのソ連側資料がある程度、公開されるようになった。また、中国側の第1次資料ははとんど公開されていないが、中ソ関係にかかわった方々の回想録等は出版されている。 本研究の目的は、こうした中ソ両国の資料を使って、両国関係が友好から敵対・対決にいたり、そして紛争のサイクルが一巡し、関係が正常化するまでの過程を研究することにある。今年度は台湾の中国国民党の党史館を訪れ、関連資料を収集した。 今年度、得られた新たな知見は次の通りである。1956年のいわゆる東欧動乱の際、中国共産党はソ連軍のハンガリー再介入には反対で、ソ連の説得により、社会主義陣営の団結を優先させるため支持を表明したというのが通説であった。しかし、保守派イデオローグで、元中央宣伝部長の呉冷西の回想により、フルシチョフはハンガリーからの撤兵を決めていたが、毛択東が劉少奇を通じて撤兵に反対であり、撤兵すれば「歴史の罪人」になると伝えたことがわかった。中国共産党の説得により、ソ連の方針は一夜で180度変わったのであり、ソ連軍のハンガリー再介入に積極的だったのは中国の側であったのである。この呉冷西の回想が正しければ、中国共産党はハンガリーの惨劇に責任がある。 いずれにせよ、1950年代、中ソ指導者の間に認職のズレが生じ、次第に相互不信がエスカレートしていく構造ができあがり、対話のチャンネルが失われていったことが、対立に拍車を加えていったのであり、今後はこうした過程についての研究を深めていく所存である。
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