中ソ間の紛争サイクルについてもう一度洗い直して、検討を加えた。すなわち、友好を強調した段階から、中国側の面従腹背の段階、さらに対決の段階をへて、最終的に和解に至る段階についてである。中華人民共和国を作り上げた最高指導者は毛沢東であったが、その毛沢東は建国直前の1949年7月1日、向ソ一辺倒政策を宣言し、同年12月、自らソ連を訪問した。その結果、1950年2月14日、中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれた。しかし、中ソ同盟は長続きしなかった。亀裂が次第に深まり、1959年6月20日、ソ連側は中ソ国防新技術協定の破棄を通告し、原爆のサンプルのような新式武器の供給を拒否した。1969年3月2日、さらに15日に再び、中ソ国境を流れる黒龍江(アムール川)の支流ウスリー江上の珍宝島で国境守備軍が衝突して、双方とも、数百人の死傷者を出した。長い敵対の年月の後で、最初の和解のサインは1079年に出された。同年4月3日、当時の黄華外務大臣は、ロシアの大使を招いて、両国間の未解決の問題を解決するためにの交渉を開き、関係を改善することを提案した。1979年末のソ連のアフガニスタン侵入により、中ソ政治協議はストップした。しかし、〓小平の強力なリーダーシップの下で、和解のプロセスは加速化された。ゴルバチョフ大統領が訪中し、中ソ関係が正常かしたのは1989年5月出会った。われわれは、この和解のプロセスのディーテルを、前外務大臣の銭其〓の回想『外交十記』から知ることが出来る。
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