1997年の金融危機の背景として、まず第一に1980年代後半期における金融機関の活動を点検した。そこで共通にみられることは、将来における間接金融から直接金融への移行という懸念であり、一種の焦りが銀行の全てに観察されることである。他方、プラザ合意のあとの政府の景気対策と大幅な国際収支の黒字とによって、日本は全面的な「金余り」状態に入り、土地への投資が急増して、土地価格も急激な上昇をもたらした。これがバブルとなって、先を争っての異常な融資競争を生みだしたのである。このなかで、経営方針の誤り、ずさんな部内管理態勢がとくに顕著であった金融機関(住専、および一部地方銀行を別とすれば)が、最初に97年に次々に破綻した。このことは、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券の破綻に関する検討によって明らかにすることができた。 他方、1996年に誕生した橋本政権は、総選挙を経て、本格的な政策立案にとりかかるが、その際、96年までの景気の回復を、循環的なものにすぎなかったことを充分に認識せず、大幅な景気後退の引き金となるような「財政再建」路線を前面に掲げた。銀行の抱える不良債権の規模を見誤ったこともその一因であろう。エコノミストのほとんどもこの財政再建路線に全面的な支持を与えていた。本研究では、こうした事情を背景に行われた財政構造改革会議が与党内部で形成されていくプロセスを明らかにした。こうして歳出の上で、厳しい予算抑制方針が決定されるのと並行して、消費税の増額、保険料の増額、所得減税の停止という3っの増税路線がとられた。これらの増税は相互に調整することなく決定され、下降局面に入っていた景気を一気に減速させて、97年の金融危機を誘発したのである。
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