1994年に実現した衆議院の選挙制度は、その後10年間にわたって(与野党間の配置たる)政党システムだけでなく、それぞれの政党内部の権力構造を大きく変えていった。自民党の場合、個々の議員の自律性が高まると同時に執行部の力をも強化するという矛盾する現象を生み出した。しかし、明瞭なのは、派閥の弱体化である。これは最も強固といわれた小渕派、橋本派において顕著である。政策決定構造においては、党首脳、党執行部(とりわけ幹事長、政務調査会長)への権限集中がみられる。また、自民党が両院で過半数をとれないため連立与党の会議が実質的決定機関として機能し、従来の政務調査会から総務会までの「与党審査」が形骸化する傾向もみられる。 以上が、「日常型政策決定」のパターンであるが、本研究では、「非日常的政策決定」をも研究の対象とした。とくに橋本政権下の経済運営がその事例として扱った。いわゆる「橋本行革」においては、首相が大きなイニシアティブをとった。これは、小泉内閣につながるポピュリズム的「改革姿勢」の原型である。しかし、それが1977年秋の金融危機において転換を迫られたとき、政策新人類とよばれる派閥横断的組織が活躍し、野党であった民主党との協議を通じて、政策決定のイニシアティブをとった。その後、小渕内閣、森内閣になると、景気刺激政策は、幹事長、政務調査会長を中心に決定が行われるに至った。これが本格的ポピュリスト内閣たる小泉政権誕生の伏線となったわけであるが、ここでは、再び首相に権限が集中している。審議会の役割は、内閣ごとにことなるが、首相が大胆な政策革新を導入しようとする場合は、極めて重要な役割を果たしている。
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