1955年のジュネーヴ首脳会談を契機に、アイゼンハワー政権はいわゆる「東西交流」-情報・人的・文化的交流がその中心である-を対ソ封じ込め政策の重要な手段と位置づけ、58年にソ連との間で文化交流協定を結んだ。アイゼンハワー大統領らは対ソ交流の推進を通じアメリカの文化、思想がソ連社会に流入することで、ソヴィエト体制に長期的な変容をもたらすことができると期待していた。以後の政権はこの方針を踏襲した。 60年代のケネディ=ジョンソン政権の外交政策の中心はキューバ、ベルリン、核軍備管理、そしてヴェトナムであったが、両政権は封じ込めの一環としての対ソ交流を堅実に実施した。65年以降に本格化したアメリカのヴェトナム軍事介入に抗議するソ連政府が交流をしばしば停滞させ、さらにはブレジネフ政権が内外の政策で保守的な様相を深めるなか、ジョンソン大統領は対ソ交流を粘り強く進め、軍備管理以外の分野で数多くの条約、協定を締結するなど、地道ながら貴重な成果をあげた。とりわけ領事条約(64年)、民間航空協定(66年)は重要であった。68年までに米ソ両国は戦略兵器制限交渉を開始するところまでに関係を改善した。ここに至る過程で対ソ交流の影響を測ることは難しいが、ソ連が次第にアメリカとのデタントを選び、西側との交流を拡大する方針を決定する上で、過去10年間の米ソ交流が肯定的貢献をしたと結論づけることは合理的である。しかしヴェトナム戦争に忙殺されたジョンソン政権がより大胆で積極的な対ソ交流を実施できなかったことも事実であり、ここにおいてもヴェトナム戦争がアメリカ外交に否定的影響を与えた。 なお時間的・資料的な制約もあり、1969-75年の共和党政権のデタント外交と対ソ交流に関する研究は不充分であった。今後の資料公開に基づく研究課題としたい。
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