3年間の研究を通じて、第一次大戦から1930年代前半にいたる貯蓄金庫と振替銀行の展開およびドイツ金融構造におけるその意義について分析し、そこから次のことを明らかにした。第一に、貯蓄銀行は歴史的に自治体によって設立された公的機関であり、それはとくに預金に対する公的保証や自治体信用に現れていた。1908年の小切手法を起点をして貯蓄金庫の業務拡大過程が1920年代初頭に達成されると、自治体単位の業務は州ないし邦の単位でネットワーク化され、1924年の中央組織結成によって全国的中央集権的資金網(貯蓄銀行組織)が形成された。通貨安定後、信用銀行との競争がしだいに顕著になるが、1931年金融恐慌において貯蓄銀行組織は自治体貸付が凍結することによって流動性危機に陥り、預金を大幅に縮小した。しかしこれを契機に、貯蓄銀行組織は自治体から独立した金融機関として制度化され(1934年金融制度法による統一的な銀行規制)、信用銀行に先立っていち早く恐慌の影響から脱した。 第二に、こうした発展を示した貯蓄銀行はドイツの金融構造のなかで独自な位置と意義を占めた。通貨安定後、国内資金を貯蓄預金として収集し、それを抵当信用と自治体信用を通じて主に住宅建設へと供給し、さらに振替銀行を通じて大都市の投資的活動に供給した。また信用銀行があまり積極的ではなかった中小企業向け信用も行った。31年恐慌において貯蓄銀行組織と自治体との資金関係が破綻すると、貯蓄銀行は自治体信用を禁止されて、のちにその資金はライヒ国債へと向かうことになった。それは特殊手形を媒介としつつ、国内の貯蓄資金を自治体ではなく国家が直接吸収する水路を形成する試みであり、ナチスはその資金を当初は雇用創出へ、そしてしだいに軍需産業へと供給することになった。貯蓄銀行はナチス金融体制の重要な手段としてしだいに組み込まれることになったのである。このメカニズム解明は、次の研究課題としたい。
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