江戸時代における三井家は、呉服業と金融業とを経営の2本柱として、三井同族11家がそれらの事業を共有していた。本研究では、三井同族各家の家政と事業経営全体とを統轄する中央機関であった「大元方」について同機関が存在した1710年から1892年までの経営を分析するとともに、会計政策の変化を追跡した。 1710年の「大元方」開設時から1730年頃までは試行錯誤的に組織改革が漸次進められたが傘下営業組織の利益を「大元方」に振り替える会計方法もそれにほぼ対応して変化し、潤沢な留保利益を蓄積するために種々の引当金・積立金が設定されていった。1740年代半ば頃から1770年代に呉服業の収益性が長期低落傾向を示すとともに、「大元方」の主たる収益源が呉服業から金融業にシフトしたが、金融業の収益性も1760年代で頭打ちとなり、「大元方」の不良債権も増大した。こうした経営不振に積年の同族間の不和が重なって、1775年に同族集団が分裂して、「大元方」から営業組織が切り離された。この分割に際して多額の不良資産を償却した「大元方」は、残った不良債権の大部分を分割期間中に償却して資本がほとんどなくなった。1797年には同苗集団が元に復して、「大元方」は営業組織を再び傘下に置いた。この再結合後、「大元方」は、事業全体の資本金配分機能を喪失した。幕末まで実質的な資産額と資本額は横這いであったが、三井同族各家への不良貸出の増加によって、見かけの資産額は漸増していき、不良債権比率が増大して自己資本比率が低落していった。 会計政策と財務内容との関連性の考察では、1740年代半ば以降については未だ不分明な点が多いが、今後も探求を進めていく。
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