日本で、江戸時代に発達した数学、和算について、とくにその初期の偉大な關孝和、建部賢弘の成果について、検討した。和算は、この二人の天才の開いた道にそって、花開いたといっても、差し支えない。 1670年、澤口一之によって著された古今算法記に提出された15問の問題は、非常な難問で、これの解に最初に成功したのが關孝和である。關は、1673年、発微算法を著し、そこで新しい手法を開発し、これらの問題を解決した。關は後年、1683年、天元術傍書法を記述し、それがその後の和算の発展に決定的な影響を与えるのであるが、その端緒がこの発微算法に見られる。關の発微算法における記述は、簡略なもので、解答にいたるまでの筋道が与えられていない。これを完全に記載したのが、建部賢弘の発微算法演段諺解(1687)で、これにより、発微算法のが完全に理解され、また天元術傍書法の使い方も、知られるところとなった。田中由真の算法明解(1678)も、同の解法を与えている。 關の発微算法に対し、これを批判したのが佐治一平である。彼は、算法入門(1680〜1681)の中で、その批判を展開したが、それは当を得ていない。そして、これに猛烈反発したのが建部賢弘である。 建部賢弘は、研幾算法(1683)において、佐治が算法入門において扱った池田昌意著数学乗除往来(1674)の遺題49題の解について、それは、全く不完全なものであるとして、これに完全な解答を与えた。しかし、建部の研幾算法における記述は、簡略なもので、解答にいたるまでの筋道が与えられていない。そこで、後年、研幾算法演壇諺解(これについては、著者も発行年も知られていない)が刊行され、それによって、彼の手法の詳細が知られることになった。 本研究者は、以上のことを解説した書物がまだ刊行されていないので、この重要な業績がごく僅かの人の間でしか知られていないことから、これらを研究した成果を冊子として作り、配布した。さらに、世界に日本の数学を知らせるべきであると考え、森本光生とともに、Selected Mathematical Works of Takebe Katahiroを作り、国際会議の機会を利用して、外国人研究者の間に配布した。
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