東アジア地域(日本、朝鮮、中国、台湾等)における建築活動は、19世紀の初頭まで完全とはゆるやかな関係で繋がっていた。それは職人達の移動(中国国内、台湾)、実際の見聞や職人の派遣(朝鮮→中国、ベトナム→中国、琉球→中国)、書籍による伝聞(日本→中国)という手段によるものであった。しかしながら、イギリス人がシンガポールを植民地化した1819年以降とりわけイギリス人の建築家によって、建築家による移植、強要的活動の局面へと移行していく。軍人技術者(Military Engineer)が中心であったインド植民地の建築活動は、1818年の民用技術者(Civil Engineer)協会の設立によって徐々に代わっていく。中国をはじめてとする租界には軍隊は駐屯していなかったから民間のシビル・エンジニアのでる幕があったのである。1834年の設立の英国建築家協会(RIBA)によって、建築家のアイデンティティが確立したが、その年鑑、名簿によって、その動向が把握できる。東アジアでは上海を中心に、東南アジアではシンガポール、インドではカルカッタ、ボンベイがその活動の中心となる。19世紀末から東アジア在留のRIBA建築家が増加し、1930年代にそのピークを迎える。今回の研究では、RIBAの建築家の動静を調査、分析するものであったが、今後、在外会員からの報告、その作品をRIBAジャーナルによって分析する必要がある。同時に1886年に創設された日本建築学会の建築家が東アジアでは進捗の度合いを増す。RIBA会員建築家と日本建築学会会員建築家との交差的な建築活動の解明が今後の課題となる。
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