20世紀後半55年間の看護についての新聞記事数のピークは昭和34年前後、平成3年前後の2期で、その内訳はいずれも看護婦不足に関わる争議が主なものであった。このことを念頭に看護争議に象徴される看護婦不足(確保)対策という看護政策課題について、関係出版物、厚生省関係資料・年表、国会関係委員会議事録、看護関係者への面接等から、今後の看護政策研究の方法を含め検討考察することを目的とした。 わが国の看護政策は、戦前に比し戦後は180度の大転換を遂げたわけであるが、その指導はGHQにおいて米国から派遣されてきた看護職によるものであることは論を待たない。第一次のピーク時は、民主主義の導入・経済の高度成長時代への突入など約20年間は国内外の動揺に伴う社会現象の背景の中で、国民の医療確保のための病院の増設・増床が図られたことにより決定的な看護労働力不足が生じた。全国病院ストライキは、権利闘争、賃金闘争、夜勤制限闘争などを組織し、政府はその措置の模索に追われ組織的な看護政策は1960年代の後半に始まった。第二次のピーク時は、医療政策の変更に対する看護婦需給増への対応不備で生じた不足問題で、量とともに質も問われ看護業務のあり方・処遇・看護教育も政策課題となり、政策の全面見直しを図ることにより看護婦等人材確保法が制定された。これらの動きに見られた法律、政治力、保健医療政策、政府組織、利益集団、経済政策等の政策的変数について検討した。(看護師の名称は使用せず元のままとした。)
|