1945年8月6日広島に世界で初めての原子爆弾が武器として使用された。この原爆による被害者(以下被爆者)に対する救護活動を行なった看護婦の体験をオーラルヒストリー法により研究を行った。データは、フェイストウフェイスにより収集し、面接は録音テープに記録した。18名の方から面接のデータを収集できたが、看護婦であっても家族や身内を探すために広島にやってきた方で救護を行なっていなかった2名をデータからはずし、16名の方のデータを使用した。 参加者の内訳は、6名、8月6日広島市内の病院に勤務しており、自身も直接被爆を体験することになりながらも救護活動を行なった方であった。その他の6名は隣接の県から、救護のために広島市内または、臨時の救護避難所へ召集され救護活動を行なった方であった。残りの4名は、勤務先の病院へ被爆者が搬送され、搬送患者の救護にあたった方であった。データは、「8月5日夜から8月7日朝まで(直接被爆者)」「連絡を受けて広島へ向かう(間接被爆者)」「終戦まで」「軍の解散と被爆軍人の帰省」「枕崎台風」「復興」に分けられた。参加者のほとんどが、直接被爆・間接被爆の違いに関わらず、脱毛、歯齦出血、貧血、倦怠感、下痢などの被爆症状が見られ、長期に救護活動に携わることはできなかった。亡くなっていく患者たちと同じ症状が自分の体に出現し始めたとき、死を覚悟しなければならず、その後の人生にも被爆者であると言うことが影響を与えた。 参加者のほとんどが軍人被爆者の看護を行なった看護婦であり、一般市民を対象として救護・看護を行なっていなかったというデータの偏りがあった。しかし、広島は軍都であったこと、一般市民よりお国のために働いていた軍人が治療の優先であった社会的時代的背景からこのような偏りは当然ではないかと考える。
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