本研究の目的は、自己を語る言説空間の歴史社会学的な再検討にあるが、本年度は、この言説空間を、友愛というテーマとの関連で考察した。具体的には、この言説空間の現代的性格を浮かび上がらせる、証言という自己物語の様態に注目し、それらを巡る問題提起と現代の哲学的考察を関連させる中で、本研究を貫く言説分析の方法論と、研究そのものの現代的意義を再確認した。 フェルマンによる「証言の危機」の問題提起は、第一に、証言を取り巻く歴史的・社会的危機を、第二に、証言それ自体に内在する危機を指す。特にアウシュヴィッツを巡る証言は、自己の真実を物語ることの不可能性を露呈させる。この「表象の限界」に直面するとき、それでもなお、自己の真実を物語る可能性は存在するのか。直ちに課題となるのは、この限界を内破することである。この限界の前にあらゆる物語を萎縮させるのではなく、むしろこの限界それ自体のうちに、物語の潜在的可能性が展開する領域を切り拓くことである。 アガンベンによる集蔵体論と証言論は、この限界そのものを超え出る強度を備えている。彼は、アウシュヴィッツにおける「回教徒」の形象を参照点に、フーコーによる「集蔵体」の概念に依拠しつつ、プリモ・レーヴィを始めとする、強制収容所からの奇跡的な生還者たちによる証言の再定位を試みる。その哲学的考察は、集蔵体と証言の二重性に注目する。それらは一方で、言表行為や証言行為の現勢態に対する限界として機能する。しかし他方で、まさにその限界機能の故に、それらは言表行為や証言行為の潜勢態が展開する領域を、証言の「残留物」の領域を開示する。 かくして、証言の危機からの「救済」が目指される。それは、一つの集蔵体を背景としつつ、証言の抱え込む限界を、それらの潜在的可能性へと積極的に読み換えることであり、それは、本研究の方法論と現代的意義を再確認する上でも、不可避の問題となった。
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