元は縁のない人びとが共に眠るスウェーデンの共同墓が、公的福祉サービスが家の中に入り込むことを拒否する「家の境界」の意識の突破を象徴するものかどうかという視点から、死者の追憶のありかたと共同性の関係を考察した。 まず、スウェーデンの火葬運動と共同墓の背景と特徴を明らかにした。その中で、共同墓にあるのは、あくまで死後の平等性、匿名性であること、水俣の「自然霊体への融合回帰」から生まれる全生命の基本的な平等性といった発想は、共同墓でありうるとしても、強制されていないことを明らかにした。 次に、共同墓の共同性とは反するようにも見える、死者の「私的追憶」の重視がスウェーデンにあることを指摘した。第一に、万聖節での死者への灯火という「私的追憶」が、共同墓の浸透と並行して高まった。第二に、遺族との縁を絶ち遺族への負担をなくそうという故人の共同墓への意志よりも、死者を追憶したいという遺族の願いが優先されている。少なくとも葬儀の実際においては、死者の追憶の拠点を築き、「私的追憶」を保とうという姿勢がみられる。第三に、既存の調査によれば、死での全人間の平等性という理想主義的考えは大してなく、遺族に迷惑をかけたくないこと、自分の墓の手入れがされなくなる怖れから共同墓が選ばれている。第四に、遺灰の場所すら分からない共同墓の徹底した匿名性には不満があり、遺族の要望でネームプレートが置ける「遺灰の木立」が導入されつつある。 スウェーデンの墓での死者の追憶は「私的追憶」であるが、日本でも祖先崇拝が私的情愛を感じる死者のみを選択的に崇拝する「私的追憶」に向かう傾向がある。スウェーデンの「私的追憶」が福祉国家化の徹底を妨げなかったように、日本の「私的追憶」も福祉国家化の徹底の妨げとはならず、福祉国家を下支えする思想へと変容しうる可能性があることを指摘した。
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