今年度は、1年目の基礎的研究から進んで、当該研究資料の収集を継続し、同資料の精査・分析につとめ、次のような結果が得られた。 明治前期には、東京女子師範学校附属幼稚園をモデルに大阪をはじめ各地に幼稚園が作られていったが、保育関係者は、貧困・勤労層の家庭を対象とする幼稚園の設立を目指しており、幼稚園施設・設備をモデルに各地に幼稚園が設立される状況と保育関係者の幼稚園に対する意識には「ずれ」が内包されていた。明治前期・中期を通じて、明治国家は、小学校教育の完成が重要課題であり、学齢とそれ以外の幼児との積極的分断を行い、中流以上の幼稚園設置への強い要求を生む。一方、明治20年代後半から30年代にかけての産業革命の進行の中で、都市の吸引力が増加し、貧困層の流入が増える。「下級ニ近キモノノ児女保育スル場所」として「幼稚園ノ模範」となるよう1892(明治25)年に女子高等師範学校附属幼稚園分室が設立され幼稚園普及が進むと期待されたが、すでにこの時期には、「幼稚園」=中流以上の教育施設であるという認識が固定化する傾向があり、分室とは異なる施設を要求し、中流以上の家庭における幼稚園入園の要望が強まる。明治30年代後半には、明らかに階層による幼稚園の二分化を前提とした議論が多く提出される。同時に、国家の課題である学校教育と家庭の掌握という課題の下に、家庭の教育役割を母親にゆだねるために、中流以上の層の幼稚園就園に対する批判の言説が形成されたことは指摘すべき点である。 以上、幼保二元化へと進む過程において、特に、新中間層を含む新たな階層区分の成立は重要な背景要因であり、明治中期以降例えば社会階層に対応した重層的な学校制度を作るという主張を強くした。幼保二元化の底流を成していると考えられる、幼保に関する帰属意識の問題は現在的課題である。
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