1.まず、本研究の成果を整理するための軸となる権門についてであるが、史料の残存状況や権門自体の存続状況などから、中世を通じての変化を提示するうえでは摂関家が適切であると考える。そこで、以下の2〜4では、摂関家を主に念頭におき王家関係の史料も参照しつつ行った、総合的な考察の概要を説明する。 2.鎌倉期の権門所領において経営に関与していた武士として、容易に想起されるのは地頭であるが、荘官(本報告書では地頭を除く)のなかにも、職務上武力を行使する者がいた形跡がある。また、或る場所の公文が悪党とされる行動をとった事例などからも、荘官の一部は武士としての性格を多分に有していたと推測できる。 3.地頭が不法行為(年貢滞納などを含む)をした結果とられる措置として、よく知られているのは地頭請や下地中分の契約の締結であり、実際権門所領に関しても下地中分が行われた事例はある。しかし、内部で地頭の問題行動が確認されない権門所領であっても、近隣の荘園の地頭から狼藉行為を受けることはあり、逆に権門所領の地頭や荘官が近隣で狼藉をする事態も起こっていた。権門側が地頭のこうした罪状を鎌倉幕府に訴えても、自らも正当性を主張する地頭を実際に幕府に処罰させることは容易ではなかった。一方、権門所領の荘官が狼藉を行った場合には、権門は領家などを通じてその荘官を罷免していたようである。 4.南北朝内乱期は、室町幕府による恩賞地給付などによって領有関係が混乱した時期であるが、武士と権門の関係が大きく変化した時期でもあったと考えられる。室町期の権門所領には、守護の影響力が守護請などを通じ徐々に浸透したと推測される。そして戦国期には、いわゆる戦国大名への権門の経済的要請は顕著になり、また戦国大名と権門の間の政治的・文化的交流が活発化した。
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