まず、日本で欠如しているイストリア史に関する基礎的な研究資料・史料を収集・整理し、先行研究の批判的検討・評価を行った。クロアチア、イタリア、スロヴェニアの三か国にまたがるイストリア地方の歴史叙述は、一般的に当事国のナショナリズムの影響が甚大であり、個々の事象に対する解釈が独善的で客観的を欠く場合が多いことが判明した。続いて、19世紀から現在に至るイストリア地方の法的地位・諸制度の把握、人口・産業統計の整理、イストリァの「国民」像に関する思想家・政治家などの発言の抽出といった作業を行った(来年度中にデータベース化し、公開する予定)。なお中間段階であるが、これらを通じて、次の点が明らかになった。 イストリア地方は19世紀初頭にオーストリア帝国の支配下に入ったが、統一的な自治単位としては認められず、トリエステ総督府への従属を余儀なくされた。19世紀を通じて進展したイストリア地方の近代化は人口の都市集中をもたらすことによって社会的・経済的に劣勢にあるスラヴ系住民のイタリア化を促進した。1846年に3対1だったスラヴ系住民とイタリア系住民の比率は1880年には3対2に激変している。オーストリア政府はイタリア系寡頭支配層の優越的地位を保全し、帝国全土で影響力を拡大しつつあるスラヴ系住民の抑圧に利用したのである。19世紀後半はイストリア住民の分断化の時代であり、スラヴ系住民が隣接するクロアチアで提唱された南スラヴ・ナショナリズムに共鳴する一方で(タボル運動や読書クラブの設立などが代表例)、イタリア系住民は表面的にオーストリア政府への服従を装いつつ、イタリア・イレデンティズムに傾倒していった。なお、両者の対立が尖鋭化する中で、第三の選択肢としてイストリア地域運動が登場したことも注目される。
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