本年度は一九四○年代から現在に到るまでの上海の文芸雑誌史料および香港移民に関する文書、映像資料の収集に重点をおいた。折から中国大陸ではいわゆる旧上海に関する文献・映像資料の発行が盛んになっているため、一次資料のリプリントの他大量の回顧録やインタビュー記事なども入手することができた。これらの資料を調査することによって浮かんできたのは、戦争末期、日本によって占領されていた時代の上海において、小説・随筆の生産と消費がなお盛んに行われていたこと、このような文化的消費の需要と供給には、教育を受けて家庭に入った有閑知識女性の存在が不可欠であったという状況である。調査対象の中心となった人物は四十年代の上海で記録的な人気を誇った女性作家・張愛玲であるが、この張愛玲と姻戚関係にあった人物と通信し、現地に残る資料の調査を依頼したことで、この作家が作品中でしきりに政治的無関心を言い、大衆的なテーマとモチーフに関心を寄せていたのとは対照的に、後に日本へ政治的亡命を果たす夫・胡蘭成は張愛玲の文学的感性に満腔の共感を寄せながらも様々な方面に政治的・文学的手腕を用いて接近していたことが明らかになった。張愛玲以上に胡蘭成の文学・政治活動の軌跡を追うことによって、台湾・香港にもたらされた張愛玲熱の重要な一端を彼が担っていることが確かめられたことは大きな成果であると思われる。対日協力者として「漢奸(非国民)」というレッテルを貼られ、一向に評価が進まない胡蘭成について、日本人という立場を生かし、一歩進んだ資料調査をすることが今後の課題となる。胡蘭成の教えをうけた人物は関東を中心にまだ健在であるので、その聞き取りが急務となるだろう。
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