今年度は、北西ドイツ・オスナブリュック地方の村落社会に関して、【encircled 1】三月革命期・反動期における下層民の受け入れ(農民農場へのホイアーリング受け入れ)規制の修正の実態、【encircled 2】18世紀後半の農民農場制度の動揺との関連を検討した。 (1)検討時期を1860年頃まで大幅にひき下げて、主に一地域での1848年規制法の運用を示す文書群を調査・分析して、同法の運用実態、特に農民農場への下層民受け入れに対する村落団体の規制の運用に下層民自身も参加するようになったことを解明した。これは、革命の結果社会秩序に質的な転換が生じたことを意味する。そして農村における三月革命の研究史からこの状況の位置づけを探ったが、下層民比重の大きさに由来する突出例である一方、世紀後半の下層民統合への動きの先駆と考えられることがわかった。なお、こうした成果に基づき、1848年法成立に関する昨年度の成果をも用いて、論文(約34000字)をほぼ完成した。 (2)主に領邦政府の政策を示す中央官庁文書群から、下層民定住問題の重要な背景をなす農民農場制度の動揺を示す農場相続制問題と農場負債制度に関する議論の文書を調査・収集した。関連文書は予想以上に多く、前者を中心に1760・1770年代の部分(一子相続制改正とそれに関する議論)を調査し、後者に関しては農場細分貸し出し問題関係文書に限定した。その結果、農場制度の動揺が1760年代から世紀末にかけて先鋭化したのではなく、1760年代にはすでに先鋭化していたとみられることが確認された。そして、世紀末にかけての政策努力によって農民農場制度がいわば規律化されていった一方、それまでに農民農場は貨幣収入増加のために下層民を安易に定住させていたのではないかという見通しを得た。
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