科学研究費の研究を始めるまでに、19世紀前半にロシア綿工業が発展し、その綿織物がアジア(ペルシア、中国、中央アジア)にどの程度輸出されていたかは、すでに把握していた。平成13年度には、1825年から1865年まで毎月刊行されていた『工場と貿易に関する雑誌』(Журнад Мануфактур и Трговли)に掲載された論文の中から、「アジア向け綿織物輸出」に関する論文に着目し、アジア綿織物市場におけるロシア製品の位置付けを行った。当時のロシアはアジア3地域の中でも特に、タブリーズ(ペルシア)、キャフタ(中国)、ブハラ(中央アジア)の綿織物市場に着目していたので、それぞれの綿織物市場におけるロシア製品の状況を分析した。この分析結果は、平成13年10月28日に大東文化大学で開催されたロシア史研究会2001年度大会で、「19世紀前半のアジア綿織物市場におけるロシア製品の位置」という題で報告した。報告内容は近く『ロシア史研究』に掲載される予定である。 分析結果の結論は、19世紀前半にロシアの綿織物が西ヨーロッパ製品と競合できなかったとする従来の通説は誤りである、ということである。というのも、キャフタ市場やブハラ市場ではロシア製品が英国製品に善戦していたからである。また、綿織物には実際には数多くの種類があり、アジアの地域によりどの綿織物を嗜好するかは異なっていた。平成13年12月後半にはサンクト・ペテルブルクのロシア国立図書館で2週間調査を行い、19世紀前半に刊行されていた『商業新聞(Коммерческая Газета)、『内務省雑誌』(Журнл Министерства Внутренных Дед)を閲覧した。現在、マイクロフィルム化した新聞記事や雑誌論文を分析している最中である。平成14年度には、消費者の嗜好と綿織物の種類という観点から、アジア綿織物市場におけるロシアの位置付けをより詳細に究明していきたい。
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