初年度は、明治19年(1886)1月の「建家取調図面」を基礎資料とした大阪の都市空間を解明する一連の研究のなかで、江戸時代以来の伝統的な都市空間の集住構造を解明し、職住形態との対応関係を考察した。最初に「建家取調図面」によって明治19年当時の東区第九区の連続平面図を復元した。つづいて、連続平面図から特徴的な町を抽出して、それらの町の集住構造を検討し、さらにほぼ同時期の住民構成や職住構成のデータから集住構造と職住形態との対応関係について考察を加えた。 町の集住形態を類型化するために、宅地の間口方向と裏行の利用状況を示す裏屋の種類を指標にした。間口方向では町通りのみに開口しているものを「一面開口」、町通りに加えて二本の筋にも開口しているものを「三面開口」として、宅地の裏行の利用状況はどのような建物で占められているかにより、「土蔵」と「土蔵+長屋」に分類した。これらの特徴を勘案して、代表的な集住形態は「一面開口・裏土蔵型」「三面開口・裏土蔵型」「三面開口・裏土蔵+長屋型」の3つに類型化することができた。 近代初頭の大阪船場の人口が判明する資料には、『明治21年大阪府東区役所統計書』がある。大阪府下の職業構成は、明治10年代後半に大阪商法会議所が編纂した「大阪商工業組合規約集」によってその一端が判明する。これらの資料から町ごとの戸数、人口構成、職業構成などを検討すると、問屋・仲買が集住する町は奉公人を多くかかえる町であり、その一方で多職種にわたる業種がみられ、かつ奉公人の少ない小売業が集住する町が存在した。前者は近世以来の職住形態を継承した町であることが確認でき、後者は裏長屋が宅地裏に密集する集住形態の様相を呈していたことが明らかになった。
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