本研究では、一人の女医の生涯と診察記録を手がかりに、女性の出産観を探ることを試みた。その女医とは近世から近代にかけて、在村の女医として地域での診療にあたった光後玉江である。本研究での私の意図は、この光後玉江によって書かれた診察記録と手紙を分析することで、1800年代後半から1900年代にかけての、地域社会での出産と女性の身体をめぐる変化を、1857年から47年間、津山の村々で診療活動をおこなった光後玉江によって書かれた診療記録によって明らかにあるすることにある。 日本において女性の身体が、産む身体として捉えられるようになったのは、江戸時代のことである。19世紀には、女性の身体と女性が産む命は、出産管理を通して、次第に藩によって管理されていくようになる。女性の出産の支配層による管理は、明治政府によって始められたのではなく、すでに近世に、支配層は、堕胎・間引きの取り締まりを試みていたのである。 その成立後間もなく明治政府は、富国強兵政策のために人口増加政策を採用する。また、そのために政府は、産科学の急速な近代化をはかった。1868年、明治政府が成立した最初の年に、新政府は、産婆による堕胎と堕胎薬の販売を禁止している。明治政府が新しくおこなったことは、医制を定め、西欧医学の訓練を受けた産婆が、明治政府の免許制度の下で働くようにしたことである。国家的規模での出産をめぐる改革がはかられるなかで、免許を受けた産婆たちは、近世から近代にかけて、多くの慣習を次第に排除していった。光後玉江も、こうした国家の政策に従わねばならなかったが、彼女は、在村で診療活動を行い、地域の中で、重要な役割を果たしていった。玉江は、地域の人々と密接なつながりを持ち、また女性たちの出産と身体観と深く結びついた診療活動を行っていたのである。
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