九州北部に於ける近世社寺建築大工の足跡と作風としては次の結果を得た。 1.大工棟梁西倉辰三清光:臼杵市に居住した西倉清光は、昭和11年同市前田字荒田の多賀神社神殿、同4年から11年にかけて同市家野字沖の天満神社神殿を、前者は「大匠棟梁」として、後者は「大工棟梁」として建立した。西倉辰三は臼杵市在住の西倉源次郎の叔父にあたる。源次郎の父西倉寛一(後に父源五郎清輝の源五郎を襲名)の兄弟で、清輝の四男が西倉辰三である。西倉辰三は明治25年12月2日生まれで、昭和30年4月、63歳で没した。大工一家である。西倉辰三清光の作風は、第1に、切石3段積みで身舎に石造亀腹と土台を用いた基礎形式である。但し、多賀神社神殿は昭和57年に土台を取替えている。第2に、軸部、身舎と向拝の組物、身舎の中備の斗なし肘木一体の墓股の手法および切目縁、脇障子、身舎の頭貫木鼻、床や竿縁天井を用いる。第3に、向拝柱の几帳面の取り方で、両神社神殿とも上下30センチは角柱のままである。尤も多賀神社神殿は昭和50年代に床板張替えをしている。第4に、向拝の打越垂木、海老虹梁使用などである。つまり、構造形式の大部分が酷似している。 2.『匠要集』は、四国民家博物館所蔵のものであるが、資料の信憑性に多少の疑間点があるので、『匠明』と比較しながら、資料の信憑性について追求することを目的とした。 3.大工河村家は近世時下関に居住した大工で、その資料が長府市立博物館に寄贈されている。その中の大棟門などの木割を翻刻した。分析は今後の問題であるが、大工河村が大棟門の木割りを勉強するために、書き残したものらしい。 4.府内藩大工利光家の文書を解読しながら、記載の神社・寺院の調査をし、文書の性格、大工利光の作風の研究を進めている。現在、神社の調査は95%終了した。
|