本研究の目的は、1)西洋の思想、とりわけ言語をめぐる思想をラカンが「症状」と呼んだ現象を規準にして読み直し、さらに2)その思想史的な研究成果の臨床への応用可能性を探ることにある。「言語をめぐる思想を『症状』を規準に読み直す」とは、言語の原点、言語を可能なものとしている条件は「症状としての言語」であり、これまでの西洋の言語思想はこの「症状としての言語」を捉えようとする格闘の歴史だったのではないか、という仮説のもとに思想史を再解釈することである。 「症状としての言語」という鍵概念を説明するには、まずラカンが「症状(sinthome)」と呼んだものが何であるかを明らかにしておく必要がある。ラカンにおいて、症状と症候symptômesとは区別されている。症候は無意識のメッセージをコード化した心身的な現象である。したがって、症候は分析家によってその意味するところを解読されなくてはならない。表現(症候)と意味(無意識)の間には乖離がある。それに対して、症状は享楽が直接に浸透した、享楽と一体化した行動や心身状態である。症状は主体にとってそれ自体で享楽であるというほかなく、別の何かを意味していたり表現したりしているわけではない。したがって、症状に対しては解読という営みが価値をもたない。 本研究の仮説は、症状に対応するような言語の方がより本源的な言語のあり方であり、その「症状としての言語」こそが、言語が意味作用の機能を有し、存在と関わることができるための論理的な前提条件になっているということである。この仮説を通して西洋の言語についての思想を見直すことで一つの道筋を浮かびあがらせ、その反作用として仮説そのものの妥当性を検証していく。研究第一年目は、ラカンの理論を参照しながら「症状としての言語」という本研究の土台となる概念的枠組みを提示した。
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