今年度は、再び生の現象学とカントとの対決に注目し、特にカントの乗り越えをはかる内在理論の革新性が抱える古典的性格の意味について考察した。「忘却された」エゴの存在を「内在」によって回復する生の現象学の革新的試みは、超越と内在の関係規定に際して古典的困難に逢着するようにみえるだけでなく、生の現象学全体の運動が、伝統への回帰によって古典的現象学を刷新する過程であるようにもみえる。では、そこでどのような伝統が問題なのか。この回帰が生の現象学にとって本質的なものであるなら、この問いは生の現象学を密かに規定する重要な前提を明らかにするはずである。以上の問いを通じて、従来のアンリ研究によってたえず指摘されてきたアンリ哲学の根本アポリアについて、その原因を特定することを目指した。具体的な研究は、次の二つの点を軸に行った。第一に、生の現象学がその批判的対象を「超越」へと定めるとき、どのような伝統的な問題設定へと身を置くか、第二に、「超越」から「内在」への遡行において、革新性と復古性はどこに存するのかを明らかにする。(1)アンリによるハイデガーの超越概念の読解を分析し、特にサルトルの『存在と無』のハイデガー解釈やG. Varetのサルトル解釈との影響関係を明らかにし、「超越」の「意識」への還元過程を析出した。(2)次に自己触発概念を再検討し、特にラシエーズ=レイのカント解釈との関係を確認し、アンリにおけるカント的思惟からデカルト的コギトへの再転換の道筋を描出した。(3)これが単なるデカルト主義への回帰ではない点を確認すべく、アンリ自我論について改めて考察し、スピノザとの関連を配慮しつつ、アンリが採用する「実在性」概念に、初期シェリング自我論の残滓を見ることを試みた。以上の研究から、自我の背後にある実在性を存在一般に代替する生の現象学の反動的性格こそ、困難の原因の一つであると結論した。
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