研究課題/領域番号 |
13J09000
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研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
中野 さやか 東京大学, 総合文化, 特別研究員(PD)
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研究期間 (年度) |
2014-04-25 – 2018-03-31
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キーワード | アッバース朝 / ナディーム / アダブ / 飲酒 / 酒宴 / 宮廷文化 / スンナ / ハディース |
研究実績の概要 |
当研究では、9世紀から11世紀にかけてナディームについて記された諸史料を分析する。ナディームとは「飲み仲間」を意味し、イスラム教が禁酒を定めている一方で、時代を通じて多くの文人達が支配者のナディームとなっていた。ナディームに関する史料には、ナディームに必要な作法や教養を説くナディーム論諸作品がある。これらの作品では、飲酒をするナディームはイスラム法から外れた存在ではなく、彼らの作法や教養がムスリムとしての教養の一部であることを前提としている。このようなナディームに対する認識を理解する上で必要となるのが、同時期に記された飲酒を巡る法的議論である。これらの議論は、ハディース六書や高名な法学者達によってなされていた。ハディース六書とは、ハディース(預言者ムハンマドの言行録)を編纂したもので、イスラム法の成立やスンナ(預言者ムハンマドの慣行・ムスリムの行動規範)の形成に影響を与えた。 9世紀から11世紀にかけて記されたナディーム論作品は、同時期に発展していったアダブ(作法)論の一部として分類できる。アダブ論はイランやインドの作品の翻訳から始まり、元々は支配者の心得を説くものであった。その後多種多様な職種や立場、状況に応じたテーマを取り上げるようになり、「ムスリムに必要な教養」としてのアダブの概念が発展していった。このようなアダブの分析からは、ハディースを基礎とするスンナのみでは見えてこない「ムスリム意識」が持つ多様な面を明らかにすることが出来る。当研究では、ナディーム論作品におけるナディーム観を分析し、同時期の飲酒を巡る法的議論の影響がどのように反映されているのかを論じる。これによって9世紀から11世紀にかけて発展していったアダブの概念に、イスラム法の法源となったハディースがどのように関わったのかを分析し、当時醸成されていった「ムスリム意識」の一端を明らかにすることを目指す。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
今年度は、9世紀中葉のアッバース朝最盛期に宮廷へ提出されたサアラビーによる『王の性質』を分析した。これは現存する中で最も古いナディーム論作品である。この作品の分析によって明らかになった点は、作者がアッバース朝宮廷の権威を確立することを目的としており、「カリフがナディームとどのように飲酒をすべきか」を議論の中心としている一方で、「カリフが飲酒をすること」自体が君主の権威に抵触するという認識が無い点である。以上からこの作品は、支配者の心得の一環として、カリフとナディームのアダブを論じており、君主論・統治論として始まったアダブ論の形式を汲むものである点、そして作者に「飲酒をするナディームはハラール(イスラム法上合法であるもの)かハラーム(イスラム法上禁じられているもの)か」という意識がないことから、当時すでに著名な法学者達や思想家達が行っていた飲酒を巡る法的議論の影響を受けていないことが明らかになった。即ち9世紀中葉の時点では、アダブ論は必ずしも同時期のハディースを根拠とした法的議論を取り込んでいないことが判明した。 一方で10世紀以降に記されたナディーム論諸作品には、9世紀中葉以降の飲酒を巡る法的議論を冒頭に取り込んだものが増えてくる。その議論を載せることで、ナディームのどのような行為がハラールの範疇であるのかを示す意図があると考えられる。法的議論の取り込みは、この時期に権威を確立したハディース六書が、飲酒を非難し、その非難を預言者の権威と結び付けるような論理展開をしていたことに対する自己弁護の為と考えられる。 以上から、10世紀にはナディーム論が法的議論を取り込むようになったことと、その要因がハディース六書にあったことを明らかにした。全体の研究計画(9世紀から11世紀のナディーム論諸作品におけるナディーム観の分析と同時期の法的議論の影響)の内、約1/3を達成した。
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今後の研究の推進方策 |
これまでの研究で明らかにした、10世紀以降のナディーム論作品の法的議論の取り込みについて詳細に分析する。報告者は、これまでの研究によって、10世紀以降のナディーム論諸作品と飲酒を巡る法的議論に多大な影響を与えた作品が、9世紀中葉の法学者イブン・クタイバの著作『飲みものの書』であることを明らかにした。今後は、イブン・クタイバの法的議論の分析を中心に行う。まず9世紀後半のアッバース朝社会において行われていた多様な人々による飲酒を巡る議論の中で、イブン・クタイバがどのような立場であったのかを明らかにする。またハディース六書全体の議論の傾向とイブン・クタイバの議論の相違について分析し、両者の相違の根本にあるハディースに関する認識の違いを明らかにする。次に10世紀以降に記されたナディーム論諸作品や飲酒を巡る議論の中に、イブン・クタイバの主張がどのように取り込まれているのかを論じる。 以上から、ハディース六書とは異なる法的議論を展開していたイブン・クタイバの作品が、10世紀以降ナディーム論の中に取り込まれていった過程を明らかにし、アダブ論が発展していく過程に、どのような法的議論が関わっていたのかを論じる。
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