平成29年度の研究では、アラビア語現存史料で最も古い層である9世紀の系譜書の分析を開始した。元々報告者は平成28年度以前から『歌書』の分析を行ってきた。アッバース朝カリフ政権解体後のブワイフ朝・ハムダーン朝下の諸史料の内、ウマイヤ朝とアッバース朝カリフ宮廷に関して最大の情報量を持つ史料がイスファハーニー著『歌書』である。これまでの研究では『歌書』のイスナード(情報源から作者までの情報伝達経路を人名を列挙して示したもの)に着目し、『歌書』の情報源とされる人々とバグダードにおけるハディース伝承者を列挙した『バグダード史』の情報を比較分析する中で、「アッバース朝カリフ宮廷」という権力の場に集い、「ハディース伝承」というイスラム法の整備・発展の中枢を担ったバグダードの知識人層を割り出した。その中で、平成29年度は最もアッバース朝カリフ政権に近く、10世紀以降の諸史料に情報源として挙げられる9世紀の文人3名に着目した。この3名はバラーズリー、ズバイル・ブン・バッカール、ムスアブ・ズバイリーであり、いずれも著作が現存している。ズバイルとムスアブは『歌書』の情報源として最も多く名が挙がっており、バラーズリーは言及回数は少ないものの大部の歴史叙述作品があり、『歌書』もバラーズリーが記している歴史的事件の多くを描いている。バラーズリーとムスアブの作品はアラブ部族の男系系譜に沿って伝記を配置しており、歴史叙述作品ではなく系譜書として分類されている。その為歴史認識を分析する史料論ではほとんど研究対象とされてこなかったが、実際はバラーズリーの作品は系譜書の体裁を取りながらイスラム初期史の重要事件を論じる歴史叙述作品である。報告者は『歌書』とバラーズリーの著作の同じ歴史的事件がどのように描かれているのか、著者達と権力との関わり、作品の引用関係と細部の変更を分析した。
|