イスラームの教義が医療文化にいかなる影響を及ぼすのかを、インドネシアを舞台として考察することを目的とする本研究は、この最終年度の研究を通して、次のように論旨が明確化されるに至った。 ①イスラーム的伝統医療は、それが「宗教」の名の下に行われるゆえに、人類学・宗教学的研究において「呪術的」側面が強調されやすく、実践者であるインドネシア人ムスリム自身の伝統医療への理解と、それに関する研究者の説明との間に齟齬が生じている。 ②「預言者の医学」において用いられる医療技術の中心には生薬療法と吸角法があり、これらを「呪術」の語で説明することは困難である。また、ルクヤ(クルアーン朗唱によって心身の癒しを実現しようとする技術)は一見「呪術的」様相を呈するが、イスラーム的文脈における「呪術/妖術(スィフル)」とルクヤが異なると考えられている点を考慮する必要がある。 ③それゆえ、「預言者の医学」は「呪術的」であると早急に結論づけるのではなく、実践者がいかなる論拠においてそれらの技術を合理的だと見なしているかを示す必要がある。論拠とは知識であり、医療技術的合理性を支える知識を近代医学(局在論的医療観)に限定することなく、神の癒しの観念(神霊論的医療観)や自然治癒力の観念(全体論的医療観)を含む複合的な知的論拠があることを明らかにする。 ④さらには、イスラームが「無道時代(呪術や多神教に特徴づけられる「無知」の時代)」に対する新しい「知」の枠組みとして成立したことを考慮し、「正しい知」に基づくイスラーム伝統医療の実践を、イスラームという生き方に関する知的枠組みの部分的表れとして理解してゆく。 以上の研究は、時に過激派ムスリムの偏狭な伝統主義的実践として表象されることもある「預言者の医学」の現実の一部を、より正確かつ公平に理解する機会を提供することができると考えている。
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