19世紀半ば琉球王国で医療宣教師として活動していたイギリス帝国の宣教師B・J・ベッテルハイムの事績は、日清戦争以降の近代沖縄社会において、沖縄の文明化の嚆矢として顕彰されるようになった。しかし、アメリカ人メソジストの牧師E・R・ブルによる運動を契機とする一連のベッテルハイム顕彰は、ベッテルハイムが活動していた当時の琉球王国社会のものとは正反対のものだった。というのも、ベッテルハイムは当時の琉球王府の役人にとって、迷惑な異邦人以上の存在ではなかったからである。 ベッテルハイムの評価がこのような極端な変化を見せたのは、日本の帝国支配と密接な関係がある。すなわち、ベッテルハイムの存在は、沖縄が日本本土の指導のもと文明化するという支配的な言説への抵抗の可能性を秘めていたのである。換言すればベッテルハイムによる医療宣教=キリスト教を核とした文明化は、日本による「表面的な」文明化よりも正統性があるとみなされていた。なぜなら当時キリスト教は西欧文明の本質であると考えられていたからであり、キリスト教国ではない日本の文明化よりも「純粋な」文明をベッテルハイムはもたらす可能性があった、と主張できたからである。 このように日本の帝国的辺境において、欧米の宣教師が文明化の担い手として称揚され、本土の権威を相対化する役割を果たした事例は、珍しいものではない。北海道では、札幌農学校を創設したクラーク博士の事例が有名である。台湾の事例では、駒込武が台南長老教中学校の事例を取り上げ、日本帝国支配のもとで主体性を発揮しようとしたことを指摘している。朝鮮半島では宣教師ホレース・N・アレンが中心となって設立した濟衆院という宣教病院の、韓国近現代史のなかで位置づけに関して、延世大学とソウル大学医学部の間で今なお論争が続いている。 以上のように、ベッテルハイムの事例は近代日英の帝国的文脈に位置づけられるのである。
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