研究概要 |
16年度はおもに「祀られる仙人-列仙図をめぐって-」と題する考察を行った。「祠」は本来、死者をまつるという動詞であり、その後、死者をまつる場所ということから、墓前の建物をさすようになったようだ。祠や廟には「図画形象」と遺像が掲げられることがあったが、それは死者の肉体および魂を具現化したものであろう。漢の武帝の祭祀に、「(太始四年)又祠神人於交門宮、若有郷坐拜」とある。応劭は「神人、蓬莱仙人之屬也」と、この神人を仙人と理解している。顔師古の「如有神人景象嚮祠坐而拜也。事具在武紀。郷讀與嚮同。漢注云神並見、且白且黒、且大且小、郷坐三拜。郷讀曰嚮」を参考にすれば、「又た神人を交門宮に祠る、有るがごとく郷(むか)い、坐して拝す」と解釈できる。『論語』の「祭如在、祭神如神在」とを意識しての表現であろうが、師古のいう「神人の景象」という語は興味深い。「景象」は姿形ということだが、「景」は影でそれは同時に「魂」を示しており、魂と姿をもった神がそこにいるかのように拝むということだろう。漢注は、実際に白や黒、また大小の神々があらわれたと述べ、引用する師古もそれを支持しているようである。ここでは神の図像があったとはされないが、『太平経』には懸象還神法がみえる。これは体内神の魂神をすみやかに還す方法として、その図を描いて掲げるようだ。現代の道教祭祀でも神々の図を掲げるが、神の似姿をえがくことによって、神がそれを自分の肉体とみなして降臨するという発想であろう。 世傳明帝夢見金人、長大、頂有光明、以問群臣。或曰、「西方有神、名曰佛、其形長丈六尺而黄金色。」帝於是遣使天竺問佛道法、遂於中國圖畫形像焉。楚王英始信其術、中國因此頗有奉其道者。後桓帝好神、數祀浮圖,老子、百姓稍有奉者、後遂轉盛。(『後漢書』西域傳天竺) 後漢、明帝の時期の仏教伝来(永平十年、六七年)が図画形像の始まりとされ、その後、桓帝(在位一四六〜一七〇)が浮圖(仏)と老子を祀ったことが記されている。けれども「蜀平、光武下詔表其閭、益部紀載其高節、圖畫形象」(『後漢書』獨行列傳 李業)と光武帝の時に形象を図画した例があり、明帝も永平中に光武帝の中興の功臣三十二人の像を南宮雲臺に圖畫させ、それは『資治通鑑』によれば永平三年(六〇)のこととされている。とすれば仏陀や老子の図像以前にすでにそのような習慣が存在していたといえる。これは後世の家廟にかかげられる遺像とよばれる肖像画や近年の墓や位牌に埋め込まれる写真、また日本の頂相等につながるものであろう。仙人を祀るのは福を求めるからであるが、祖霊とは異なり、またよく知られた神でもないため、淫祠的なものとみなされ、その祠は廃されることも多かった。しかし宋代には仙人祠なども封爵を加えられ、国家権力の中に序列化されていくのである。なお研究をすすめてきた芝草に関する考察はさらに整理を加えて最終年度には公表したいと考えている。
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