平成17年度の調査は、素盞鳴神社周辺の宗教的施設の注目しながら動いた。 昨年度の中京大学社会科学研究所の論文「鬼と村人」『社会科学研究』(第25巻第2号通巻48号)で「牛頭天王島渡り」を踏まえて、仮説として、牛頭天王(素盞鳴)=十一面観音=薬師如来が三位一体で集落毎に祀られているのではないかと想定してみた。その結果、必ずしもこの組み合わせを見るわけではないが、 牛頭天王=十一面観音あるいは観音=地蔵もしくは十王堂 のような組み合わせを確認した。この背景には神仏習合、本地垂迹の思想を考えなくてはならないことになる。今後の課題にもなるが、どのような習合思想、垂迹思想を背景にこの種の組み合わせが残ったかが検討できる。それは、豊橋市(旧吉田)を含めて東三河全体に及ぶ構造を有していることが指摘できる。つまり、三河一宮の砥鹿神社を仮に中心とするならば、旧吉田城の中にある、城内の牛頭天王及び、城外の牛頭天王を南に置いて、北に鳳来寺山の薬師如来、さらに田嶺観音の十一面観音を配していると見ることができる。このように、大雑把に旧吉田城(現在の豊橋)にむかって北(鳳来、田嶺方面)から豊川が流れ、城のそばで川筋を西に変えている。このことは、旧吉田城は昔の京都のような陰陽五行の風水思想に基づいた立地用件を示していると考えることができる。旧吉田は視点を変えてみれば豊川の三角州の上にあるといえる。それは、川の恵み、船による商業の発展を暗示するとともに、寄り来るものへの畏れをも内包していたと考えるべきであったろう。この事を裏付けるものとして、吉田城の南に観音路と呼ばれる通りを見ることができる。ここにある寺院の宗派、及び本尊がどのような観音かはまだ確認できていないが、城内の天王、城外の天王のすぐそばに観音路と称される寺町区域が存在することは興味深い。また、『豊橋寺院史』(昭和34年)を見る限り、寺の中には本地堂を含め、観音。地蔵堂などがあり、地区、あるいは小字毎の宗教的宇宙観が構成されていたことが伺われる。
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